- 成果を出すまでの時間を受け入れる必要がある。
結果が出るまでのタイムラグを理解し、長期間の努力を続けることが重要。 - 社会的成功や評価は大衆の受け入れにかかっている。
才能や能力だけではなく、タイミングや大衆の受け入れが成功の鍵となる。 - 金銭は自由の一部を手に入れる手段である。
金銭は完全な自由を得られないが、多くの自由を手に入れることができる。 - 継続が成功への鍵である。
自分自身が楽しめることを続け、ポジションを維持することが重要。 - 一体感や協調性が社会的成功に繋がる。
個人の能力よりも調和や協力が重要。ただし、内向的な人には苦しい場面もある。
成果を出すには時間が掛かる。この事実を受け入れないとどこにも勧めない気がする。何を野郎にも結果が出るまでにはタイムラグがあって、結果が出るまでには「結果が出るか分からない期間」を乗り越えることが必要になる。
ある物事に対して必死に努力していたとして、その人は十年後に報われる、社会的成功を収めて、収入を得られるとする。その場合、十年間は誰にも見向かれもしない、合ってもせいぜいごく少数の人たちの反応だけ、社会的には見放されている、誰からも無視されるような状況を、十年という長期間にわたって乗り越えないといけない。
こういう例はたくさんあるだろう。名前は忘れたが、死んでから初めて評価された世界的な画家もいたはずだ。素晴らしい才能があっても、それで収入を得られるか、評価を得られるか、名声を得られるか、というのは、いわば大衆に受け入れられるかどうかに掛かっている。自分の能力で左右できる範囲というのは、本当に突き抜けていない限りは難しい。というか、世界的に有名な画家ですらそうだったのだから、才能の有無でどうこうするのは不可能なのかもしれない。
投資の世界で、「雷鳴の輝く瞬間にマーケットにいることが必要」みたいな話がある。要するに株価が劇的に上昇する瞬間にマーケットに居合わせなければ、利益の大半をロストしてしまうという、そういう話だ。それと同じことが、あらゆる分野においてもいえるのではないか。
雷鳴の輝く瞬間とは、別のジャンルに置き換えれば、大衆に受け入れられる瞬間、社会に受け入れられる瞬間、言ってしまえば「バズる瞬間」だ。その瞬間まで生き残れなければ、少なくとも社会的な意味合いではあってもなくても同じということになる。
人間は金銭がなければ生きていけない。金に支配されている。その支配を断ち切るには金を得るしかない。金銭が自由の土台だと割り切った論理も見かけるが、まあ当たっていると思う。金で買える自由は全てではないにしても八割九割くらいは買えると思う。
成果が出るまで継続する上で何が必要なのか? 一つは自分自身が楽しめること、自分自身の利益になること、要するに自分本位であることが重要になると思う。
なぜなら社会的に認知されて成功を収めるまでの間、その成果物を観測できるのは自分以外にいないからだ。多少はいるにしても、無視できるくらいの少なさで、その人たちにとって有益で反応が得られたとしても、それで収入を得られるわけではない。
少数の人たちの反応が励みになって続けられるというのはあると思う。それも結局は自分自身が楽しめることだと言い換えられる。自分が楽しいから、他人に喜んでもらえるものを継続して作り出せる。他人の反応を楽しめるから、もっと作品を作り出せる。
結果として続けているうちに、反応してくれる人の数が増え、最終的には一定数の大衆に認知され、職業として成立する。そういう論理なのではないか。
だから継続することが何よりも重要なのだ。投資の世界で言えば「マーケットに居続ける」ということだ。嫌になってもやる気が出なくても、ポジションを減らしても、何をしてでもいいから、退場だけはしない。成功する上での最低条件は、成功するまで止めなかったということだ。それだけは確かだ。
「一体感を味わえない人間」というフレーズが浮かんだ。テレビで合唱の特集をやっていたからだ。
合唱のようなものでは個人であることはノイズにしかならない。協調性、全体としての成果が問われる。一人だけ突出して歌がうまい、声量がある、そういった要素は減点要素になる。
トータルで調和が取れていることが重要なのだ。そうして生まれた物には確実にパワーがある。一人では絶対に為し得ないエネルギーがある。人間社会が発展してきたのも、この総体としてのパワー、調和が取れた一体感としてのパワーが推し進めてきた部分が大きいと思う。
でも自分のように他人となじめず、他人の中に埋没すると息苦しく、社会の歯車になると苦しく、会社の中で没個性的な振る舞いを強いられると激烈なストレスが溜まる人間もいるわけだ。こういう人間はどうすれば良いのだろうか。
アインシュタインや大谷翔平のように、極端に突出した能力を持っていれば話は違うのかもしれない。でも僕のような凡人のそれは単なる性格で、能力的な高さとは無関係だ。だからたちが悪い。
それとも彼らはたまたま社会から評価されただけなのだろうか? 例えば僕のこうした内向的な性質が滅茶苦茶に評価される世界であったのなら、僕でも社会的な成功を収めることができたのだろうか?
多分そうはならない。結局社会的成功というのは、社会を単位にしている、つまり多くの人間の中でなにがしという文脈で語られるから、多くの人間という部分で引っかかってしまう人間は評価されない。
何を言いたいのか分からなくなってきたが、つまり大衆に評価されるかどうか、ということであり、一体感というのは大衆と強く結びついていると感じる。現時点ではそういう結論になるだろうか。脊髄反射的に書いているので割と支離滅裂な感じになる。